第4回『オレンジリボンたすきリレーを振り返って」

実行委員長 増沢 高

1.小山市の事件とたすきリレー

栃木県小山市は人口 17 万人の小都市である。栃木県の南に位置し、茨城県と隣接している。小都市といっても緑の自然が多く残った静かな街である。この閑静な小山市で衝撃的事件が起きた。平成16 年のまだ暑さの残る9月のことである。この町に住む4 歳と3 歳の兄弟が、同居する成人男性の手によって流れる川の橋の上から投げ落とされ死亡したのである。犯人は兄弟の父親の「舎弟」と呼ばれる間柄の男で、父親の指示で兄弟の面倒を見ていたという。もともと家庭内には不適切な環境があり、兄弟は児童養護施設に預けられていたが、親族である祖母のもとに引き取られ、その後この家に戻されていた。事件後、施設を退所させる判断が妥当であったか否か児童相談所が厳しく問われ、判断の甘さを訴える世論が新聞やテレビを賑わした。

この事件を機に、小山市民の有志がNPO 法人「カンガルーOYAMA」を設立し、こうした事件が2度と起こらないことを願って、オレンジリボンキャンペーンを考案した。オレンジリボンを子ども虐待防止の象徴とし、これを身につけて皆で虐待防止を呼び掛けるよう訴えたのである。現在このキャンペーンは全国組織である「NPO 法人児童虐待防止全国ネットワーク」に引き継がれ、児童虐待防止推進月間である11 月を中心に、様々な啓発活動が全国各地で行われている。

私たちの「湘南・東京子ども虐待防止オレンジリボンたすきリレー」もそうした啓発活動の一つである。オレンジリボンをオレンジのたすきとし、複数のランナーが駅伝方式でつなぎ、虐待防止を訴えるイベントである。子ども虐待への対応は一人の力、一つの機関では困難で、多分野の機関や職種が協働してはじめて前に進んでいく。駅伝も個々の力の結集が実を結ぶスポーツであり、この意味において虐待対応における協働と重なるところがある。また湘南・東京地域は、かの有名な箱根駅伝の地でもある。これらがたすきリレーを始めた理由である。平成19年に行った第1回目は、箱根駅伝のコースをほぼそのままに100名程の有志のランナーがたすきをつないで走破した。走破しきったあの時の充実感は今も忘れられない。ただゴール地点である大手町の休日の人の少なさに、寂しさを覚えたのも確かだった。そこで翌年から渋谷からの都心コースと小田原からの湘南コースを設け、人出の多い横浜のみなとみらい地区をゴールとし、両コースのランナーが出会うこととした。ゴール地点では1 日中イベントキャンペーンを行った。以降このような方式が続いている。

たすきリレーは今年で4回目を迎えるが、この間に岐阜県や山口県でも行われ、今年は滋賀県で実施されるなど活動が広がりつつある。そして何とも喜ばしいのは、オレンジリボンキャンペーン発祥の地である小山市がたすきリレーを行うことになったのである。小山市のたすきリレーの話を伺ったのは今年の2月である。小山市役所の課長さんと係長さんが、実行委員会の事務局でもある子どもの虹情報研修センター(虹センター)に尋ねて来られた。私たちの実施日の一週前に小山市がたすきリレーを行い、小山のたすきをこちらにつなぎたいとの意向であった。私たちにとっては当然大歓迎であり、当日はこちらの実行委員会が小山市のゴール会場に赴き、たすきを受けとる方向で検討することとなった。さっそく実行委員会が開かれ、これを話したところ、委員の全てが賛同した。反対者がいないことは想定内だったが、その中の一人が「自分が横浜までの約150Kmを走ってつないでもよいか」と言いだしたのには驚いた。この発言の主は山下さんである。山下さんは、毎年全区間走行し、ウルトラマラソン等にも参加し続ける程の図抜けた走力の持ち主である。一瞬は皆の口が開いたものの、彼の走力は実証済みで、すぐに納得の表情に変わった。こうしてまた一つ驚きの企画が誕生したのである。

小山市のタスキリレー当日はよく晴れた穏やかな日となった。小山市役所の会場では、朝9時にランナーがスタートした。スタートとゴールセレモニーが行われる会場は地元高校生のよさこいソーラン節など様々なイベントで賑わった。市民が一体となってイベントを盛り上げている。11 時半過ぎに走り終えたランナーが会場に到着した。ひときわ大きな声援が飛ぶ。ステージ上でランナーに完走賞が授与された。走り終えた後のランナーの笑顔は素晴らしいといつも思う。ただ走っただけでない何かがランナーの笑顔の中に満ちている。それはとても大きな充実感なのだろう。走ることはけっして派手ではないものの、嘘やごまかしのないまっすぐなものだ。だからだろう、素直に笑顔を受け取ることができるし、素晴らしいと感動できるのだと思う。

ゴールセレモニーの最後に、私たち湘南・東京たすきリレーの実行委員 3人がステージ上に呼ばれた。その中に山下さんがいる。小山市長から「つないでいただきたい」との言葉とともに小山のたすきが渡された。彼はここから150Km 先の横浜にある虹センターまでたすきをつなぐためにここにいる。小山市のランナーの願い、市民の願いを東京・神奈川に届けるためである。

2.山下さんの思い

スタートしてまず彼が向かったのは、あの事件が起きた橋である。きれいに澄んだ幅の広い、流れの緩やかな美しい川にこの橋がある。あの事件の悲惨さと、この美しさがどうにもつながらない。誰もが「まさかここで起きたとは」と思わずにはいられないだろう。山下さんもその一人である。この川の名は「思川(おもいがわ)」という。古人にとって、思いを抱いたり思いを込めるような、そんな川だったのだろうか。山下さんと同行(山下さんのサポート隊)した私たちにとっては、事件への思いと虐待防止の願いが、この名称に重なってきた。橋を渡ると、そのたもとに小さな地蔵が2体並んでいた。あの兄弟の地蔵であることはすぐに分かった。地蔵の前には車の模型やミニカーが置かれている。きっと車が好きな兄弟だったのだ。地蔵も我々の思いと一緒だろう。山下さんはその前にしゃがみこみ、しばらく手を合わせた。

地蔵が置かれていたことは、驚きでもあった。虐待による死亡事件は、全国津々浦々で頻発しているのだが、事件が起きたその土地に地蔵が置かれたという話は聞いたことがない。こうした事件は、その地域の人々にとっては、早く忘れ去りたい悲しみでもあり、地域の汚点でもある。印など残さずに、早く風化させたいと思う人も少なくなかろう。小山市役所の課長さんと係長さんが虹センターに来られた際、たすきリレーを行う理由に「市には早く忘れたいという意見もある。でも私たちは二度とこのような事件を起こさないためにも忘れてはならない。そのためです」と話された。小山市ではその言葉通りに、毎年9月には兄弟の鎮魂式が行われているし、カンガルーOYAMAの活動は今でも地道に続けられている。そして今年からは市をあげてたすきリレーを行ったのである。小山市の姿勢は他の地域にはない志があることは確かで、敬意を表さずにはいられない。

山下さんは再び走り始めた。彼は一昼夜を走り続けるつもりでいる。山下さんは児童養護施設の指導員である。児童養護施設とは、児童福祉施設の一つで、虐待を受けるなど家庭で生活することが困難となった子どもたちが、児童相談所から措置されて入所する施設である。全国には約560か所の児童養護施設があり、約3万人の子ども達がそこで暮らしている。家族から離れて、社会が子どもの暮らしを支える仕組みを社会的養護と呼ぶ。社会的養護児童は全国で約4 万人おり、その多くは児童養護施設で暮らす子どもたちが占める。その他の児童福祉施設として、乳児が対象の乳児院や、情緒的な問題の治療を目的とした情緒障害児短期治療施設、非行児童が中心の児童自立支援施設等がある。里親委託も社会的養護の一つであるが、日本の場合里親に委託される子どもは少なく、全社会的養護児童の10分の1にすぎない。

山下さんが、小山からのリレーにこだわったもう一つの理由は、思川で死亡した兄弟が児童養護施設で暮らしていた子どもであったことが一番の理由である。児童養護施設に勤める山下さんにとって他人ごとではないのである。児童養護施設に入所する子どもの半数以上が、家庭内での被虐待体験を持っている。それもよほどの虐待状況があるゆえに家族から離されて入所に至るのである。長期間食事を与えられず、衰弱しつつある子ども、度重なる暴行ゆえに新旧のあざが全身に残る子ども、熱湯をかけられ、体に赤く火傷が残る子どもなど、彼らの体に残る被虐待体験のすさまじさを物語る痕跡を取り上げたら枚挙のいとまがない。

後遺症は体の傷だけではない。壮絶な環境を生きながらえたゆえに、人間として生きるべき心の中核に深刻なダメージを受けている。大人に対して不信感や恐怖感を強く抱いているため、職員との良好な関係がなかなか築けない。大人に上手に甘えることを知らず、職員に全く近づこうとしない子どももいる。大人に頼ることができないということは、苦痛や苦しみを一人ぼっちで耐えることを意味する。そのままでいいはずがない。

友達関係をみても、ルールを守る意味が分からないためトラブルが頻発しやすい。自らの衝動や欲求をコントロールする力が弱く、待つことができずに要求をすぐに満たそうとする。思うようにいかなければ怒りやすく、それを収めるのにも時間がかかる。職員が怒りを鎮めるよう促すと、逆に暴言や暴力を受けて職員が傷付く場合もある。細やかな情動体験を感じ取れない子どもも多い。不快感が優勢で、快適に過ごすことができず、熱い寒いなどの感覚が麻痺しているかのような子どももいる。食事、入浴、排便、着替えなど、ごく基本的な社会的習慣が年齢相応に身についておらず、小学校高学年児でも、着替えの習慣がなかったり、排便の後尻をふけなかったりする子どももいる。給食の時間に座っていられない子どもや、箸の持ち方が分からない子どももいる。盗みやウソをついて周囲を困らせる子どもも少なくない。自己イメージは非常に悪く、被害的で劣等感が強い。小学校2年生で「どうせおれバカだから。」などと頑なになる子どももいる。

こうした子どもたちへの児童養護施設での養育は並大抵のものではない。自分の子どもの子育てでさえ大変なのに、他人のしかもこうした種々の問題を抱えた子ども達を、少ない職員で養育しているのである。国の基準は、子ども6人に職員が一人という。実働時間が日に8時間とすれば、一人で十数人の子どもに対応する計算になる。これを可能と考える常識人は皆無と思うのだが、政治や行政はこれをなかなか変えようとしない。こうした状況ゆえに、施設内で職員からの不適切な対応や、子どもの同士のトラブルから大きな問題へと発展する場合もある。

しかし多くの施設は、脆弱な体制の中でも何とか工夫をして、子どもの回復と健全な育ちのために努力をしている。山下さんもその一人である。それゆえ施設で少しずつでも成長の歩みを見せた子どもが、家庭に戻ってまた虐待を受け、再び心身が傷つくことは、施設職員にとってはあまりにもつらく、許せないことなのである。しかし小山ではそれが起きてしまった。山下さんにとって、それがたまらなく無念であり、その思いがここに足を運ばせたのである。

山下さんは、自分が走ることで、子どもに信じる心と勇気を与えたいと願っている。子どもは抱えた問題ゆえに、物事に上手に対応できず、失敗を繰り返しては、地域や級友から疎まれやすい。だから自分は生きる価値のない存在であると思いがちである。山下さんは、子ども達が「自分は大切な存在である」と気づいてほしいし、「自分でもやればできる」と信じてほしい。そのためにも楽しくやりがいがある体験を積み上げてほしいと願っている。山下さんが走ることを見つけたように。

3.忠犬ハチ公と地域子育て支援

ハチ公像
ハチ公にも
オレンジのたすきが!
山下さんが次に目指したのは、渋谷の忠犬ハチ公像である。ここが一週間後に行われる「湘南・東京子ども虐待防止オレンジリボンたすきリレー」都心コースのスタート地点となる。ハチ公銅像前がスタート地点と決まるまでには、ハチ公銅像維持会をはじめ、多くの関係者との話し合いが行われた。ハチ公銅像とこの場所を何らかのイベントに使用することは非常に困難と聞く。しかしここをスタート地点とすることをほとんどの人が認めてくれた。しかもハチ公も1日たすきをつけて、虐待防止の呼びかけに一役かうことになったのである。その他の中継所もそうであるが、協力にうかがったほとんどの機関が、話を真剣に聞き、趣旨を理解し、了解してくださる。その度ごとに感謝の気持ちで一杯になるのだが、同時に子どもへの虐待を防ぎ子どもの幸せを願う気持ちは、皆同じであることを痛感するのである。

このスタートを盛り上げようと、準備の段階から渋谷区商店街の有志の方々、渋谷区子ども家庭支援センターの職員の方々が熱心に協力された。子ども家庭支援センターは東京の各区に設置された機関である。区民の子育て相談に応じると同時に子ども虐待対応の前線基地でもある。かつて子ども虐待相談等の要保護児童に関する相談は児童相談所が担うとされていたが、平成一七年の児童福祉法の改正で、市区町村にもその役割をとることとなった。つまり目の届きやすいより小さな地域単位で虐待防止に取り組むシステムとしたのである。そのため虐待通報の窓口にもなり、迅速に状況確認を行う責務も担うこととなった。

渋谷区子ども家庭支援センターでは子育て相談他、子育て教室、短期緊急保護など様々な支援サービスが行われている。家族によっては、経済的な問題、ドメスティックバイオレンス、家族の疾病や障害、養育者の精神的な問題等、子育てに負の影響をもたらすリスク要因を複数抱えている場合がある。子ども虐待の可能性が高いハイリスクの家庭に対しては、より濃厚な支援サービスが必要となる。またこうしたリスク低減に向けた支援には、それぞれのリスクに対応する複数の異なる機関の連携が基本となる。こうした連携の枠組みを要保護児童対策地域協議会(協議会)と呼ぶ。協議会がケース会議を開いて、具体的な支援策を検討する。この協議会の運営とケースの経過状況の確認もこのセンターが担っている。

現在全国のほとんどの市区町村で協議会が設立され、子ども虐待の対応の一次的機関として活動している。子ども虐待は分離を必要とするような深刻な状況を頂点に、その深刻さによって、3つの層からなるピラミッド状となる。頂点の層は子どもを家族から分離して支援を行う約4万件の社会的養護ケースである。中間層が虐待発生の危険性が高いハイリスクケースである。大多数を占める底辺層は一般の子育て支援の層である。市区町村が主に担うのは、大多数が占める下2つの層であるが、ハイリスクケースの中で、虐待状況がより深刻で、子どもの安全が脅かされるケースは、児童相談所が引き継ぎ、子どもの緊急保護も含めた専門的な対応を行うことになる。

子ども家庭支援センターのような市区町村の機関の役割は、地域の中で家族のニーズに適した多様な子育て支援サービスが用意されていることが理想であろう。しかしどんなに良いサービスが提案されたとしても、一般住民の支持がなければ、必要な財政的措置が認められずに事業化へとは進みにくい。行政サービスの充実には世論の後押しが必要なのである。オレンジリボンたすきリレーは、子ども虐待防止の啓発と共に、子どもを大切にし、子育てを尊ぶことのできる社会づくりへの呼びかけでもある。こうした社会をベースに子育て支援サービスが充実することを願っている。

4.山下さんのゴール

山下さんは、真夜中の忠犬ハチ公像を後に、1週間後に行われる湘南・東京オレンジリボンたすきリレーの都心コースをそのままたどることとした。降り始めた冷たい雨が山下さんのシャツを濡らす。サポート車両と連絡を取り合あうための携帯電話が雨にぬれて調子が悪い。品川を抜け六郷橋を越える頃には雨が上がり、夜明けを迎えた。時折激しい眠気に襲われるが、仮眠をとれば余計に体が重くなると、走り続けた。川崎、鶴見を抜け、山下公園に到着したのは午前10時を回っていた。

数知れない海外渡航の歴史を終え、山下公園の桟橋に静かに碇泊し続ける氷川丸。その近くに作られた石のステージ。ここが「湘南・東京オレンジリボンたすきリレー」のゴールとなる場所である。10月31日の日曜日は11月1日から始まる児童虐待防止推進月間のイブにあたる。石のステージを中心とした一帯で、朝から様々なイベントが行われ、そしてランナーを迎える舞台となる。昨年のゴールは横浜みなとみらい地区にある日本丸メモリアルパークであったが、今年はAPECが11月に開催され、みなとみらい地区が警戒態勢に入るため、東に数キロ離れた山下公園がゴール地点に選ばれたのである。

山下さんはここで一息つき、本日のゴール地点である虹センターへ向けて走り始めた。虹センターでは、横断幕とのぼりを立て、正午には山下さんを迎え入れる準備を整えていた。地域の民生委員さんはじめ、たすきリレーの役員など関係者が集まり始めていた。

虹センターは、「湘南・東京オレンジリボンたすきリレー」実行委員会の事務局の一つである。子ども虐待に関する研修、研究、専門相談、情報発信の4事業を展開している施設で、研修に関しては児童相談所長等、児童虐待にかかわる職種の研修を年間26本行っている。実行委員会の事務局は虹センターの他に、日本子ども家庭総合研究所(日総研)とNPO法人虹のリボン事務局が担っている。

日総研は児童福祉を中心とした研究と情報収集・発信を行っている機関である。児童相談所における性的虐待の事実確認面接技法の確立を目指した研究など、現在の日本にとって必要かつ重要な研究を様々行っている。日総研と虹センターは兄弟のような関係でもある。ここの研究員の有村さんは、たすきリレーのホームページや情報発信において中心的な役割を担っている。

虹のリボン事務局は、2008年に設立された団体である。エイズ撲滅のレッドリボンや乳がん防止のピンクリボンなど、リボン運動を支援し、効果的な啓発事業を展開している団体である。テレビなどの番組制作の映像プロ集団でもあり、活動の撮影、編集を一挙に手掛ける。また、実施に際しての出演者交渉、構成台本や、舞台構成なども担っている。これまで3回行った「湘南・東京オレンジリボンたすきリレー」も全て映像編集され、関係機関に配布されている。こうした映像発信は啓発を考えたときに非常に有効である。

実行委員会は、この3つの機関や団体の職員のみならず、グループホーム、児童福祉施設、社会福祉協議会、NPO 団体、企業等様々な分野のメンバーで構成されている。委員の全てがボランティア参加であり、運営は企業等の寄付金による。財政面で非常に苦しい中でこの活動を展開しているのが実情で、個々の財政的な持ち出しも多い。特に映像撮影や編集には相当のコストが必要で、虹のリボン事務局の赤字覚悟の活動には胸が痛くなるほどである。

午後1時、山下さんは虹センターの門をくぐり、集まった人々の祝福を受けてゴールテープを切った。一昼夜走り続けての150Km の完走である。走り切った人の姿は、見ているものの胸の奥に熱くこみ上げるものを感じさせてくれる。この感動は1週間後の「湘南・東京オレンジリボンたすきリレー」につながることとなる。

5.台風の接近と湘南・東京たすきリレーの開催

たすきリレーまでの一週間は、この夏の猛暑から一気に冬が訪れたような底冷えのする寒さが続いた。この夏から秋にかけての気候には誰もが異常気象を言葉にしたくなるほどだったが、その思いを強くしたのがこの時期の台風の発生である。この夏は猛暑であると同時に台風がほとんどない奇妙な夏だった。それなのに秋が一気に深まりかけたこの時期に大型の台風が接近したのである。停滞し発達し続けた台風が、週の中日に動き出し、たすきリレー当日の日曜日に関東に直撃する予報がでた。木曜日の週間天気予報をみると、日曜日に暴風雨のマークが記されていた。大慌てで、中止の判断と雨天対策の確認に努めた。ただ実施の有無を相談した関係機関で中止を求める声が皆無だったことには驚かされた。中には暴風でも走ると言ったランナーもいた。それはそれで心配になったが、とにかく決定はぎりぎりまで待つとし、固唾をのんで台風の動向を見守った。

奇跡が起きた。直撃するはずの台風の進路が南東にそれ、さらにスピードが速まったため、前日の夕方に関東に最接近し、そのまま夜半には千葉県東海上沖へ去っていくことが確実になったのである。金曜日の週間天気予報の「暴風雨」のマークが「曇り時々雨」に変わった。驚いたのと嬉しさは「やった。できる」と叫んだほどである。翌日にもう一度台風の進路を確認し、実行委員や関係機関に予定通りの開催を正式に伝えた。たすきリレーのホームページにも、日曜日の完全実施が大きく記された。

今でも、この天気の回復が不思議でならない。子どもの思考と笑われるだろうが、ランナーや実行委員達の強い願いが天に通じて、台風を吹き飛ばしてくれたように思えるのである。

予報通り真夜中に台風は去り、タスキリレー当日の朝は、雨も風も止んでいた。ここは湘南コースのスタート地点である小田原の児童養護施設ゆりかご園である。施設の玄関にはこれから走る20人弱のランナー、役員、施設の職員の方々と子どもたちが早朝から集まっている。予定通りの午前8時にスタートセレモニーが行われた。神奈川県保健福祉局の中島局長も見られ、セレモニーの中で激励の挨拶をされた。20 名のランナーは10 人ずつの二手に分かれ、ゆりかご園の子どもたちに見守られながら、8時半前に第1 グループが、数分後には第2 グループがスタートした。ランナーは、施設の職員、学校の先生、児童相談所(児相)の職員、神奈川県の加藤部長さんの姿もある。皆笑顔で充実した走りである。最後尾を走るのは山下さんである。小山市のたすきをつけている。1週前に小山から150Kmを完走したばかりなのに、その疲れは全く見せず、今年もゴールまで走るという。

東京では、渋谷区子ども家庭部職員さんの発案で、ハチ公前広場の東急電車モニュメント通称アオガエル内で、子ども虐待防止に関するパネルやチラシを設置、実施日を挟んで前後14日間「オレンジリボン啓発ブース」として展開されていた。いよいよ当日、ハチ公前で都心コースのスタートセレモニーが午前9時に始まった。渋谷区長桑原さん・東京都福祉保健局部長雑賀さん挨拶の後、ハチ公銅像維持会星野さん、大西さんの手によってハチ公像にオレンジたすきがかけられた。ハチ公前で都心コースのスタートセレモニーが午前9 時に始まった。渋谷区長の挨拶の後、ハチ公像にたすきがかけられた。このたすきは、ハチ公のサイズに合うように新たに発注したものである。ビニールでコーティングされ、鍵がかけられるようになっている。発注先は大阪岸和田にある業者である。これまでもたすきは全てここにお願いしている。岸和田にこだわったのは、その地が祭りに人一倍力を入れる地域であり、こうした製品作りには経験と実績を持っていることが一つ、もう一つはあの岸和田事件が起きた地であったからである。岸和田事件は、子ども虐待に対応する者にとって、忘れてはならない大きな事件である。快活で優秀な中学3 年の男児が、実父と内縁の妻から執拗な暴力を受け、食事も与えられず餓死寸前までに追い込まれ、保護されたものの重篤な障害を負ってしまったのである。不登校とされていた子どもの背景に虐待があったことと、中学3年生でも虐待から逃れられなくなることを痛烈に教えた事件であった。子ども虐待防止を訴えるこの活動において、心に刻んでおかねばならない事件の一つであり、その意味からも岸和田産のたすきを私たちは望んだのである。

ランナーと関係者は、しばしの間たすきをかけたハチ公を見つめた。想像以上に似合っていることが嬉しかった。子ども虐待防止を願い、子どもの明るい未来を、私たちと一緒に願っているように感じられた。走る前のランナーの心にやる気と勇気が湧いてきた。

6.井上さんの思い

9時半に都心コースのランナーがスタートした。ランナーの中には、第1 回目から参加し、今回全区を走る予定の井上さんがいる。井上さんは東京都多摩児相の児童福祉司である。児相は虐待対応の中心機関である。虐待が疑われる子どもの安全確認のための立ち入り調査や、虐待を受けている子どもの保護など、行政的権限を行使し家庭に介入できる唯一の機関である。

全国の児相が対応した児童虐待ケース数は統計を取り始めた平成 2 年度の1,101件から一度も前年度を下回ることなく増え続け、平成21 年度は44,211件となった。平成2年度の約40倍を超えたのである。ケース数が40 倍になっても、この間に児童福祉司の数は倍増したに過ぎず、激務の状況が年々深刻化している。虐待ケースの中には、子どもの保護をめぐって家族と対立関係に陥るケースも少なくなく、その対応は困難を極めている。子どもの安全を心配し、家庭訪問を行っても、頑なに拒まれることも少なくない。逆恨みされ、暴言や様々な手段で福祉司が中傷を受けることもある。ストレスフルな職場の代名詞になりつつある。

危機的状況からようやく子どもを保護し、施設入所につなげたとしてもそれで終わりでない。子どもが再び家族のもとで暮らせるように、家族に対しての支援を行うことが必須となる。しかいったん対立関係となった児相が家族の支援を行うことの難しさは想像に難くない。強制的介入と支援という矛盾する対応を行う難しさである。このため児相は、施設、医療機関、学校、民間の相談機関など多様な機関と協働し、役割を分担することで困難を克服し、支援することを目指す。児相にとって多分野協働は必須なのである。しかしこの協働が、困難ケースになればなるほど難しくなる。家族の示す言動も機関や相手次第で移ろいやすいこともあって、ケース対応には誤解が生じやすい。なかなか前に進まない状況にいら立ち、互いが批判的になって、関係がこじれやすいのも事実である。ケース対応よりも、機関対応の方がずっとストレスであるといった福祉司の声も聞く。

井上さんもそうした激務の中で仕事をする一人である。走ることを通じて、様々な立場の人たちがつながり合いたいと願っている。つながり合い支え合うこと。それは井上さんが日々の業務を通して心底願っていることのように思う。たすきを皆でつなぐというとても素朴で単純な活動かもしれないが、そのときは皆が一つになっている。井上さんはそれがとても嬉しくて、だからずっと笑顔で走っている。

1区、2区には、後援企業である資生堂の陸上部のランナーが4 名参加した。資生堂陸上部は、強豪ランナーが集まったチームとして名高く、市民ランナーにとってのあこがれでもあり、一緒に走れるランナーはこの上ない喜びである。資生堂からは一般社員の方もランナーとして参加しているが、こうした一般企業からの参加も年々増えてきた。中でもエキスパート・チャリティ・アソシエーションは、初年度から毎年社内でランナーを募り積極的に参加している企業である。協賛企業として金銭的支援もされ、そのおかげでオレンジリボンが印刷されたランニングシャツを作ることができた。この活動の育ちを温かく見守っている企業で、年々盛り上がりを見せる経緯に目を細め、共に喜びを分かち合ってくれる。今年はフィリップモリスジャパンの社員の方も複数参加した。こうした企業の人たちがこの問題に関心を持たれることは非常に意義がある。専門家だけでなく一般の人々の意識の高揚こそ、虐待防止活動には不可欠だからである。

第1中継点の日本子ども総合研究所を超え、ランナーは第2 中継点の東京タワーに到着した。東京タワーでは午前9時から、原宿ライブハウス・ジェットロボットの協力によるインディーズ系アーティスト10組によるライブリレーが既に始まっていた。東京タワーに到着したランナーは、音楽に迎えられ、集まった人たちの感性を受けながら次にランナーにたすきを引きついだ。ランナーは次の中継点である品川の泉岳寺へと向かった。

7.たすきをつないでいくランナーたち

湘南コースのランナーは、第 1 中継点である心泉学園の子どもたちや地域の方々に迎えられ、第3中継点である、エリザベスサンダースホームを目指した。湘南コースは第4 中継点の茅ヶ崎ファームまで児童養護施設が並ぶ。どの施設でも、子どもたちが大勢集まって、ランナーを応援してくれる。自分の施設の職員がたすきをつけて走る姿に誇らしげである。「子どもを大切にしたい」と願い一生懸命の大人の姿は、どんなに多くの言葉と理屈を語ることよりもずっと子どもの心に響くように思う。その姿は長く記憶されるように思う。

茅ヶ崎ファームを後にしたランナーは、東海道線の架橋をくぐり藤沢橋を越えて遊行寺までの急坂に入った。ランナーの息が一気に乱れてくる。遊行寺は都心コースの泉岳寺と共に各コース唯一のお寺の中継点である。どちらも静かな中継点であるが、凛とした空気がランナーを迎えてくれる。サポートとして同行する役員も含め、興奮気味なテンションをなだめてもくれる。どちらもコースのほぼ中間点に位置づけられ、ほっと一息の場所といえよう。たすきを引き継いだランナーは、次の中継点の西横浜国際病院に向かった。西横浜国際病院では、看護師さんら職員の方々が、ケーキやバナナを用意し、ランナーを温かく迎えてくれた。地域の民生委員の方も応援に来られ、声援と共に次のランナーが走りだした。

都心コースのランナーは泉岳寺を超え、正午前には品川児相に到着した。児童相談所では、職員総出で、チラシ配りなど地域をあげての啓発活動を行っていた。地域の民生委員や主任児童員が多数集まっていた。品川児童相談所でたすきを引き継いだランナーは、このコース最長区間である第5区を走り始めた。いよいよ東京と神奈川県の境界である多摩川を超える時が来た。次の中継点である川崎市富士見公園では、川崎市民祭りが行われている予定だったが、台風の接近でこの週末に中止が決定されていた。ただ中継ポイントとして、設置されたステージはランナーの中継のために残された。天気を恨みながらも、こうしてステージがあることは非常にありがたかった。特にこのコースは、10数キロの長い道のりであることに加え、町工場が多いためか、休日は沿道の応援が乏しいさびしいコースでもある。こうした形で完走をねぎらってもらえることは周囲が思う以上にランナーには嬉しいのである。ランナーは、ここに午後1時過ぎに到着した。東京コースも残すは鶴見中継点のみで、ゴールの山下公園が間近に迫ってきた。

8.盛り上がるイベント会場、山下公園



ゴール地点であり、一日イベントが行われる山下公園石のステージ前では、朝7時から展示ブースの開設やステージ上の音響設置などあわただしく準備が進められた。今回はブース展示数も増え、昨年以上に華やかな雰囲気である。神奈川県のブースでは、リボンの印刷されたエコバックとともに、児童自立支援施設の子ども達と職員が栽培したミカンが配られた。学園の様子や作業する子ども達の様子の写真展示もあって、ミカンの向こう側にあるこれまでの苦労が伝わってきた。子どもと職員の愛情が注がれたミカンは甘酸っぱくて懐かしい味がした。その隣には今回から参加の資生堂事業財団が、「ぐらんまのハッピー子育て応援サイト」など財団の事業や、支援している児童家庭支援センターの紹介を行っていた。資生堂の色彩センスはさすがで、訪れた人々の目を引く。中央のブースではカンガルーOYAMAが、手作りリボンを張り付けて大きなリボンのオブジェを完成させるコーナーを設け、訪れた人たちに呼び掛けていた。横浜市は子どもの塗り絵コーナーを、母子支援施設協議会は施設紹介のパネル展示を行っていた。その隣には、もう一つの初参加であるCROP.のブースである。CROP.はNPO 法人で、イルカセラピーを施設の子ども達等に実施している団体である。セラピーの様子が紹介されていたが、青い海とイルカの写真が多数掲示され、ここだけまるで南国ビーチのようで、ひときわ華やいだ雰囲気を醸し出していた。別のエリアでは明治大学大学院の学生が中心となって子どもの遊び場を提供し、多くの親子が集まってきていた。こうしたブース展示も、学生、民間団体、行政、企業など様々な分野の機関や団体が設置している。このことの意義は大きい。また、今年はボランティアの手作りオレンジリボンが10000 個集まり、会場内のいたるところで、チラシや手作りリボンが訪れた人に配布された。この中心となったのが横浜キワニスクラブや学生、民生委員、里親、議員事務所の方等ボランティアである。さらには大道芸のグル―プである「くりちゃんとゆかいな仲間達」がパントマイムと一緒に子ども達のためにオレンジバルーンの動物を作っては子ども達に手渡してくれている。毎年おなじみのトラとサルの着ぐるみ(学生が中に入ってくれた)も子ども達に大人気である。イベント会場はこれだけの立場の異なる人たちが同じ目的で集ってくれたのだ。

ステージでは、午前10時から、児童養護施設幸保愛児園の子ども達のブラスバンドから始まった。音楽好きの子ども達が集まって、毎日練習を積んでいるということで、練習の成果が見事に発揮されていた。ステージ上のプログラムを進行されるのは、プロの司会者である島田さんとアシスタントの永井さんである。プログラムには2人と2組のプロのミュージシャンによるライブも組み込まれているが、こうしたプロの方々も皆、この活動の趣旨に賛同されてのボランティア参加なのである。ブラスバンドが終了し、正午前にKAT さんのライブが始まった。歌声が山下公園の港に響く、時折船の汽笛が演奏に重なるのだが、それはそれで港町特有の雰囲気が隠し味となっていた。午後に入り、虹センターの川崎氏の司会による座談会が始まった。今回はミュージシャンの成田圭さん、土田聡子さん、プロボクサーで元東洋チャンピオンの坂本博之さん、現役格闘家で、横浜市公立小学校の非常勤講師勤務、元児童養護施設の職員でもあった勝村周一郎さんの4人のパネラーが子ども虐待防止へのそれぞれの思いを語った。この座談会の後、坂本さんは東京コースの最終区を、勝村さんは湘南コースの最終区を走るためにそれぞれの中継点に向かった。

ステージでは、土田聡子さんのライブ、傷歌尊塾のライブへと続く。演奏の盛り上がりに併せて、続々と人が集まり出した。時間は午後2時を過ぎた。

9.ゴールを目指すランナーたち

その頃、湘南コースのランナーが西横浜国際病院をスタートし、横浜市港南区にある永野小学校を目指していた。小学校に到着したのは午後2時を回ったところである。昨年は同日に地区の運動会と重なったが、運動会プログラムに私たちのたすきの中継が組み込まれたのである。多くの地域の方々に声援を受ける中、たすきをつなぐことができ、中継点の中では、一番地元地域とつながった印象のある場所であった。今年は学童クラブのバザー(タケノコバザー)と重なったが、今回も私たちの中継がプログラムとして組み込まれたのである。グランドには100人を超える人たちが集まっている。ランナーが到着する前には、学校の先生とこれから走るランナーがリレー競走を行う等、中継に向けて盛り上がるよう演出されていた。ランナーが到着すると大きな歓声が起き、その中で次のランナーへとたすきが引き継がれた。ランナーの一人はのぼりを手に持ち、グランドを数周して会場を後にした。いよいよ最終区である。ランナーは、ファミリーグループホームの斎藤さんを先頭に、学校の先生、児童相談所職員、児童福祉施設職員、そして格闘家の勝村さんの姿もある。まさに多分野多職種で構成されたチームだ。全20名のランナーが二手に分かれて走行する姿は壮観である。

川崎を後にした都心コースのランナーも、鶴見の第6中継点であるナイス株式会社を通過し、最終7区に入った。ランナーはファミリーグループホームの霜倉さんを先頭に、児童相談所職員、児童福祉施設職員、企業の方、そしてプロボクサー元東洋チャンピオンの坂本さんも元気に走っている。こちらのランナー構成も多分野の人たちからなっている。

子ども虐待への対応は、多分野協働が基本である。しかし機関同士、職種間同士での連携は、簡単なものではない。連携を難しくさせる理由の一つは、自分の組織や専門領域の考え方ややり方が優先されることから起こる。自分の立場にこだわり相手の土俵に乗れないのである。協働するためには、いったんは自分の立場を横に置き、本来考えるべきケースに視点を置き、この軸足をぶらすことなくケースにとって何が必要かを検討することである。その上で自分たちに何ができるか、どうすればできるかを考えることだろう。軸足がぶれて自分や組織の立場ばかりが優先されたら協働は成立しない。そればかりか互いを批判し合い、連携に支障をきたして関係はこじれていく。深刻で対応が難しいケースほど、こうした事態が生じやすい。さらにはこじれた関係に油を注ぎ、ひずみを拡大させるかのように振舞うケースも少なくない。こうして困難状況はますます膨れ上がっていく。子ども虐待への対応において、このことは陥りがちな特徴の一つとして認識した方がいい。対応の難しさはケースのみにあるのでなく、対応するチームのあり様にも起因するということだ。これに気づかない限り、虐待に対応する職員の困難さと疲弊はなくならないだろう。

児童虐待防止を願いたすきをつないで走るという、素朴で単純な行為であるが、参加したランナーはこの目的と行為を共有している。これほど多岐にわたる職種の人たちが、自分の立場も忘れて走っている。まずはここからのように思うし、一つになる喜びと力をかみしめたいと思う。

10.出会いのゴールだ

湘南コースのランナーが一足早く山下公園の入り口に到着した。都心コースのランナーは桜木町を通過し、後数百メートルのところに来ている。予定された時間をやや遅れて、都心コースも山下公園に入った。山下公園は横浜港にそって横に伸びた公園である。横幅が500mほどあり、休日の公園内は市民ランナーや子ども連れの家族で賑わっている。ゴール地点の石のステージは公園東に位置し、停泊している氷川丸と道路を挟んだ公園の反対側にある横浜マリンタワーを直線で結んだ真ん中あたりである。氷川丸の横は、海上バスの桟橋でもあり、多くの観光客が乗下車するポイントだ。両コースのランナーは、公園の西側入り口に入ったところで合流したのである。その後、湘南コースは公園の港側の道を、都心コースは陸側の道をゴールに向けてゆっくりと走りだした。ランナーたちは公園内の人々の目をくぎ付けにしていく。

ステージでは、成田圭さんのライブに、訪れた人たちが足を止め、人の群れが少しずつ大きくなっていく。会場の雰囲気は最高潮である。ライブが終わり、ランナーを待つばかりとなった。ステージ前の人だかりは300名ほどとなった。ステージ上にカンガルーOYAMA が訪れた人たちに呼び掛けて完成した大きなオレンジリボンオブジェが掲げられた。もうすぐランナーが到着するというアナウンスに、訪れた人々も関係者も一緒になってざわつき始めた。

公園の両側にランナーの姿が見えると大きな声援があがった。ステージ前の両側から湘南コースと都心コースのランナーが、走り寄って中央で会った。総勢40 人ほどのランナーが皆一緒に10 メートルほどに張られたオレンジのゴールテープを切った。会場は大きな拍手である。ランナーは皆さわやかな笑顔で、走り終えた充実感が伝わってくる。

ゴールしたランナー全員が、改めてステージに上がると、再び大きな拍手である。ランナーを代表して10名のランナーに小林美智子大会会長から完走賞が手渡された。40名のランナーの中には、それぞれのコース全区間を完走した山下さんと井上さんの姿もある。

会長あいさつの後、岐阜県から駆けつけた石田さんがステージに立った。2週間後に予定されている岐阜県のタスキリレーを代表してここに来られたのである。岐阜県のたすきリレーは3年前から行われたが、その立て役者が当時岐阜県の中央児相長であった石田さんだった。現在は児童養護施設白鳩学園の園長をされている。私たちが小山からたすきを引き継いだように、今度はこちらのたすきを渡す番である。山下ランナーから小山のたすきが手渡された後、私たちのたすきを石田さんの手にお渡しした。石田さんは責任をもって岐阜につなげることを宣言すると会場は大きな拍手である。最後に他の区を走ったランナーや関係者が皆ステージに上がり、成田圭さんと一緒に「翼をください」を合唱、来年もここで会うことを約束し閉会となった。秋の夕暮が近付いていた。少し肌寒い。しかしランナーをはじめボランティアやブース展示の人達など、これに参加した人たちの心の中は温かい。フィナーレ後の感動の余韻はそのようにさえ感じさせた。

ブースやステージの片づけが終わると、またいつもの山下公園の姿に戻った。あたりはすでに薄暗くなっている。集まっていた人の姿も今はもうまばらだ。港の入る客船の汽笛が3回鳴った。子ども達の明るい未来を願う思いを来年にもつながるよう願っているように聞こえた。

子ども虐待防止オレンジリボンたすきリレー実行委員会

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